72年振りに子供の頃に育った処を訪れる。
私は、第二次世界大戦の2年前に生まれました、そして訳あって東伯郡の報国に開拓団として疎開しました。父親は慣れない農業の中、風が元で私が4歳ごろにこの世をさりました。母親は5人の子供を抱え農業に励みましたが貧乏暮らしに耐えかねて、私とすぐ上の姉を養子に出しました、私は、小学校3年の鳥取大火の冬のことでした。もともと父は鳥取の大工町の入江家の次男でしたが大学進学で京都に下宿していました。そこで母と知り合い結婚しました。その母は千葉県の御宿の庄屋の娘でしたが、縁あって京都の親戚に養女で暮らしていました。兄弟は8人(男5、女3)a)長女は、市議会の議員の息子と結婚していました、次男は、父の兄貴には子供がいなかったので養子に入りました、ここまでは報国に入植する前なので戦争中でしたが割と豊かな生活だったようです。入植後に次女は父の長男の家にお手伝いさんで入りました。次女はお手伝いさんに入るまでは、小さな私の面倒を見てくれました。長男や次男、三男、5男はすでに若くして永眠していますが、つい最近長女が99歳で永眠しました。次女と三女と私が鳥取で生き残っています。この度次女の子供の世話で鳥取の生き残りが、私たちが生活した、大山のふもとの報国を訪れることにしました。私は結婚した当時に一回だけ育った処を嫁に見せるために訪れています。54年も前の事でした。その時は子供の頃のイメージは残っていました。今回の訪問では半世紀の年月は言葉では言い尽くされない残酷な事実を見せつけられました。我々が育った処にはたくさんの樹木が生えて昔の面影はありませんでした。
写真の電柱が立てっいる処の前の約80平米のところです。Googl写真では大山町羽田井となっていますが、私たちが住んでいたころは、東伯郡報国でした。35.48016229719745, 133.57972008975796。
場所は「下市」から5kmぐらい南に入った処です.
朝な夕な雄大な大山の北側を見て6年間過ごしました。
赤いセーターの奥さんは報国の近所の女性でいろいろとお話が弾みました、ですが私の思い出の中には無い人でした、白髪交じりの女性は三女で青谷に住んでいます。次女は90歳が近いため車に乗ったままです。比較的に若そうな女性は次女の子供で今回の足をしてくれました。




















