大阪の堺には、家康の墓と称する墓を祀る寺がありました。
堺の南宗寺には家康の墓と称する墓がありました。大阪夏の陣の時に後藤又兵衛に槍で刺されてこの寺で絶命したとの言い伝えがあり、あまり古くない墓が祀って有りました。ここには千利休が修行した事があり利休一門(裏、表)の供養塔があります。
明治10年に建設され、木造で石油ランプの光源で約18kmまで届いたと言われる現存するが稼働はしていない灯台も見学した。そのた、
妙国寺、千利休屋敷跡、土佐藩士の墓、山口家住宅を見学した。
日々の生活を気ままにつづった日記帳。
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大阪の堺には、家康の墓と称する墓を祀る寺がありました。
堺の南宗寺には家康の墓と称する墓がありました。大阪夏の陣の時に後藤又兵衛に槍で刺されてこの寺で絶命したとの言い伝えがあり、あまり古くない墓が祀って有りました。ここには千利休が修行した事があり利休一門(裏、表)の供養塔があります。
明治10年に建設され、木造で石油ランプの光源で約18kmまで届いたと言われる現存するが稼働はしていない灯台も見学した。そのた、
妙国寺、千利休屋敷跡、土佐藩士の墓、山口家住宅を見学した。
千本閻魔堂(引接寺)にお参りしました。
京都の3つのお寺にお参りしました、始めは引接寺でそこで閻魔さんにお願いをしました、地獄には引きずり込まないでと。閻魔様は人間を三悪道に行かせたくないために、怒りの表情で地獄の恐ろしさを語り嘘つきは舌を抜くぞと説いてくださるそうです、お寺の尼さんらしき人は、盆の彼岸のしきたりを教えてくれました。菅原道真公をお祀りしている北の天満宮や、おかめ塚伝説の残る千本釈迦堂、ここには応仁の乱や幾多の戦火を免れた仏像(快慶作の重文)や本堂(国宝)を見学しました。夏の暑さを耐え忍んでの一日でした。
この度は天井川の様子がよく分かりました
草津宿は6年前に訪れていましたが、この度は別の方から入った関係でこの天井川の様子がよく分かりました。前回は石山寺を観光してからでしたが、今回は、西国12番の岩間山、正法寺。義仲寺(木曽義仲、巴御前)、草津宿本陣の順番でを訪れました。草津宿は中山道と東海道の分岐点で交通の要所であったのです。草津宿本陣は江戸時代の姿をよくとどめており昭和24年に国の史跡に指定され全国に残る本陣の中でも最大規模を有しています。
今回は修学旅行生がたくさん。
法隆寺へは、5年前に見学していましたがその時は4月だったので
修学旅行生は全くいませんでした。が、今回は6月の為修学旅行生がとても多くビックリしました、更に驚いたことは、食事場所で鳥取の国府東小学校の6年生が同席したのです。ただの偶然なのでしょうが神のいたずらにまたヒックリしました。午前中は、「ぽっくり往生の寺」吉田寺(大和の斑鳩 創立天智天皇の頃)を参拝してからの食事時のことでした。法隆寺のあとで、法起寺(創建は正徳太子の頃)を見学し三重搭(国宝)や木造11面観音菩薩立像を見て帰りました。
生野銀山を見学しました。
兵庫県の朝来市生野の口銀谷の散策と生野銀山を見学しました。
口銀谷は江戸時代から明治・大正・昭和にかけて生野銀山で栄えた町でした。江戸時代には生野銀山を幕府直轄地として貴重な財源とした。その関係で、代官所跡があったり、東西寺には徳川歴代将軍位牌が祀られている。また明治29年には、三菱合資会社に173万円で(佐渡と生野銀山)を払い下げられた為、三菱の重役社宅などが現存するしまた映画俳優の志村隆の生家もある。
生野銀山は、総延長350Km、深さ880mにも及ぶが昭和48年には、採掘コストが増加し、山ハネ等の要因で閉山し1200年の歴史に幕を閉じた。