鳥取県東部の城紹介
1.鳥取城跡

鳥取市の久松山には明治12年まで城があったが廃藩置県で取り壊され現在は石垣だけ残っている。 鳥取城は、かの秀吉が本能寺の変の前に攻めていたことで良く知られている。
現在その面影を残しているのは、二の丸に上がる処の門とその石垣、天守閣のあった頂上にも、僅かながらの石垣。 また、県立図書館前には武家門が残っている。秀吉が鳥取の城を攻めた時の武将が吉川経家であったが、 秀吉は鳥取城を兵糧攻めで長期間に渡り、城内への出入りを止めた為武将たちは、大変な飢餓に苦しんだといわれている。 最後は城主が切腹する事で、その他の武士たちは命を救われた。県立西校の前に吉川経家を偲んで銅像が立てられている。 最後の2枚の写真は、天守閣が在ったころの絵図と在りし日の二の丸付近である。
追記、鳥取城の復元予想模型を入手しました。写真をクリックしてください。

二の丸 二の丸

2.鹿野城跡

鹿野城跡は鹿野町の西側の小高い山にある。亀井コレノリは山中鹿介らと結託し尼子氏再興を、と毛利氏と戦っていた。天正9年(1581)秀吉が鳥取城を攻め落とした時に功績があり この城主に任じられた。城跡は整備され町民の憩いの場となっている。
堀 堀 二の丸 鹿野城神社入口 鹿野城神社 鹿野城天守 天守からの眺め 地図

城跡には薬研掘りが今も残り。天守台への上り口には城を守る神社の鳥居があり、途中、二の丸跡、西の丸跡、天守台と続くが、中ほどに鹿野神社がある。天守跡は14,5メートル四方の天守があったと看板に記載してあった。

3.つづらお城跡

つづらお城跡は湖山池の南西の張り出した半島にある。城跡には昭和11年に地元の大郷村の青年団が立てた碑と鳥取市の教育委員会が記した看板があるのみで、平地の広場の看板には何も記入されていない。 写真では分かりにくいが中央上部の展望台が城跡である。湖山池周遊街道と登り口に標識があるだけである。
教育委員会の看板によると、城は本丸、二の丸、三の丸と周辺の町屋があったとか、吉岡将監定勝が築城したが、 亀井慈矩により落城とある。定勝の弟の右近が鳥取城攻略の秀吉の千生瓢箪の馬印を奪ったと言うエピソードが書かれていた。
復元城 復元城 復元城 復元城 復元城 復元城

4.天神山城跡

天神山城跡は湖山池の東側の緑風(元の農業)高校のそばにある。城跡への入り口は鳥取飛行場から布施運動公園に行く道路の中ほどにあるが写真のように非常に分かり難い。
城跡には当時を思わせる物は何も無く、看板だけである。 天神山城は室町時代に始まり因幡守護山名氏の居城であった。江戸時代の「因幡志」には文正元年(1466)山名勝豊が築城したとある。そして山名豊国が天正元年(1573)に鳥取城に本拠地を移す約100年間周辺の政治的拠点であった。 天神山城は内堀、外堀を備えた城下町が形成され壮大な規模の城郭があったと言う。
復元城 復元城 復元城 復元城 復元城

5.桐山城跡

浦富海岸の背後にそびえる標高203mの木山に築城された。但馬から因幡にかけての海岸線に多く存在する海賊城の一つで、但馬・因幡の海上交通路を扼する要衝だった。
復元城

以下工事中。
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